粗鋼生産量:27%減、自動車向け需要減響く 生産再調整も--08年12月
08年12月の粗鋼生産量が前年同月比27・9%減と過去最大の減少率を記録した最大の要因は、全鋼材需要の約3割を占める自動車向け需要が急速に落ち込んでいるためだ。自動車メーカーは、深刻な景気後退により大幅減産に踏み切っており、景気低迷の長期化で減産が今後も加速すれば、鉄鋼メーカーもさらなる生産調整を迫られる。
鉄鋼大手各社は昨秋以降、08年度下期(08年10月~09年3月)の粗鋼生産計画を相次いで下方修正した。自動車メーカー主要12社の今年度の減産幅は国内外で計268万台以上に上ったことが最大の原因で、最大手の新日本製鉄は200万トン強、JFEスチールが400万トンを減産すると表明している。
トヨタ自動車の渡辺捷昭(かつあき)社長が「世界経済がどこまで落ちていくのか、分からない」というように、自動車販売の行方は底知れず、「自動車メーカーは毎月、生産計画を下方修正している」(鉄鋼大手幹部)という状況が続く。
経済産業省も昨年末、09年1~3月の国内粗鋼生産量が前年同期比31・6%減になると予想した。
鉄鋼各社はこれまで、原料の投入量を落とすことなどで生産調整してきたが、JFEは予定していた高炉1基の改修工事を約1年前倒しして1月中旬から実質的な稼働休止に踏み切った。
今後、「高炉の操業休止など、抜本的な生産体制の見直しを考えなければならないメーカーが増えるだろう」(アナリスト)との見方も広がっている
ロシアのシュワロフ第1副首相は4日、モスクワで開かれた国際経済フォーラムで、09年のロシアの国内総生産(GDP)成長率が「0%かそれ以下になる」と述べ、98年以来11年ぶりのマイナス成長になるとの見通しを明らかにした。さらに、国内の失業者数が今年末までに、現在の2倍を超える約100万人に達する見込みだと述べた。ロシア通信などが伝えた。
第1副首相は、マイナス成長に陥る見通しになったことに伴い、09年予算の大幅な見直しを進めていると表明。歳出の大幅削減で、財政赤字を「最小限」に抑えたい意向を示した。
ロシア経済は、原油価格の下落と世界的な金融危機の影響で大きな打撃を受け、通貨ルーブルの対ドル相場は昨年7月から4割以上下落している。
地元中学生のアイデア
Fri 23 Jan’09
東京都立産業技術高専・荒川キャンパス(荒川区南千住8)の学生らが作った超小型人工衛星が近く、鹿児島・種子島から打ち上げられるのを前に、開発に携わった学生12人が21日、現地に出発する。
同校が公募していた衛星の愛称も「輝汐(きせき)」に決まった。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)によると、衛星を積んだH2Aロケットの打ち上げは21日に予定されていたが、天候などの関係で延期された。学生らは地元住民らの募金で得た資金をもとに現地入りし、打ち上げに立ち会う。
愛称「輝汐」は地元中学生のアイデア。同キャンパス周辺の地名が「汐入」だったことや、学生たちの衛星開発という「奇跡」が宇宙に「軌跡」を描くという意味も込めた。応募があった507件から採用された。
荒川区役所でも、JAXAがネット配信する打ち上げのライブ映像を1階ロビーのプロジェクターを通じて放映し、応援する予定。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)と三菱重工業は20日、天候悪化で延期していた温室効果ガス観測技術衛星「いぶき」の打ち上げを23日午後0時54分に行うと発表した。20日午後、打ち上げを22日に設定したが、天候の好転が見込めないと判断、再度1日遅らせた。
いぶきは種子島宇宙センター(鹿児島県)からH2Aロケット15号機で打ち上げられる。公募で選ばれた大学や企業の6基を含め、計7基の小型衛星が相乗りする。
同校が公募していた衛星の愛称も「輝汐(きせき)」に決まった。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)によると、衛星を積んだH2Aロケットの打ち上げは21日に予定されていたが、天候などの関係で延期された。学生らは地元住民らの募金で得た資金をもとに現地入りし、打ち上げに立ち会う。
愛称「輝汐」は地元中学生のアイデア。同キャンパス周辺の地名が「汐入」だったことや、学生たちの衛星開発という「奇跡」が宇宙に「軌跡」を描くという意味も込めた。応募があった507件から採用された。
荒川区役所でも、JAXAがネット配信する打ち上げのライブ映像を1階ロビーのプロジェクターを通じて放映し、応援する予定。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)と三菱重工業は20日、天候悪化で延期していた温室効果ガス観測技術衛星「いぶき」の打ち上げを23日午後0時54分に行うと発表した。20日午後、打ち上げを22日に設定したが、天候の好転が見込めないと判断、再度1日遅らせた。
いぶきは種子島宇宙センター(鹿児島県)からH2Aロケット15号機で打ち上げられる。公募で選ばれた大学や企業の6基を含め、計7基の小型衛星が相乗りする。
— posted by サイト管理者 at 06:44 pm
事前の予想では
Sat 10 Jan’09
Appleと3大レコード会社は、米国時間1月6日の「Macworld 2009」で、コピー防止ソフトウェアから離れる姿勢をほとんど見せなかった。
事前の予想では、Appleが単純明快に、今後「iTunes Store」でデジタル著作権管理(DRM)を適用しない楽曲を販売することを発表するのではないか、とみる向きもあった。しかし、米国で最大の音楽小売業者であるAppleは、ライセンスを守る道を選んだ。このライセンスでは、ユーザーはiTunesから購入したDRM付き楽曲をアップグレードして、物議を醸しているソフトウェアを外すことができる。だが、アップグレードするには追加費用を払う必要がある。
Appleの広報担当が明らかにした詳細によると、iTunesのユーザーは今後、ボタンを1回クリックするだけで自分の楽曲ライブラリをアップグレードできるという。1曲につき追加で30セント支払えば、購入済みのトラックに対応するDRMフリーのバージョン(ビットレート256kbpsのAAC形式)をダウンロードできるというものだ。
この形での楽曲提供は1月6日に開始され、Appleは800万曲のDRMフリーの楽曲を提供していく。2009年4月までには、さらに200万曲が追加される。情報筋によると、残りの楽曲については、ライセンス問題によりDRMを外せないという。
このことについて不平を言うつもりはない。詳細は筋が通っているし、Appleと主要レーベル(Universal Music Group、Sony BMG、Warner Music Group)が800万もの楽曲について契約を結んだことは印象的だ。
今回の動きで、AppleのiTunesはまた、互換性に向けて今まで以上に前進することになる。iTunesで購入した楽曲はこれから先、AACに対応する各社のデジタルプレーヤーで再生できるはずだ。これはつまり、iTunesのユーザーが将来Apple社製以外のデジタルプレーヤーに買い替えたときに、手持ちの楽曲ライブラリが再生できなくなる心配をしなくてすむということだ。
4番目に大きなレコード会社のEMIについては、Appleはすでに特別価格を設けて、DRMフリーの楽曲を256kbpsのAAC形式で提供している。
事前の予想では、Appleが単純明快に、今後「iTunes Store」でデジタル著作権管理(DRM)を適用しない楽曲を販売することを発表するのではないか、とみる向きもあった。しかし、米国で最大の音楽小売業者であるAppleは、ライセンスを守る道を選んだ。このライセンスでは、ユーザーはiTunesから購入したDRM付き楽曲をアップグレードして、物議を醸しているソフトウェアを外すことができる。だが、アップグレードするには追加費用を払う必要がある。
Appleの広報担当が明らかにした詳細によると、iTunesのユーザーは今後、ボタンを1回クリックするだけで自分の楽曲ライブラリをアップグレードできるという。1曲につき追加で30セント支払えば、購入済みのトラックに対応するDRMフリーのバージョン(ビットレート256kbpsのAAC形式)をダウンロードできるというものだ。
この形での楽曲提供は1月6日に開始され、Appleは800万曲のDRMフリーの楽曲を提供していく。2009年4月までには、さらに200万曲が追加される。情報筋によると、残りの楽曲については、ライセンス問題によりDRMを外せないという。
このことについて不平を言うつもりはない。詳細は筋が通っているし、Appleと主要レーベル(Universal Music Group、Sony BMG、Warner Music Group)が800万もの楽曲について契約を結んだことは印象的だ。
今回の動きで、AppleのiTunesはまた、互換性に向けて今まで以上に前進することになる。iTunesで購入した楽曲はこれから先、AACに対応する各社のデジタルプレーヤーで再生できるはずだ。これはつまり、iTunesのユーザーが将来Apple社製以外のデジタルプレーヤーに買い替えたときに、手持ちの楽曲ライブラリが再生できなくなる心配をしなくてすむということだ。
4番目に大きなレコード会社のEMIについては、Appleはすでに特別価格を設けて、DRMフリーの楽曲を256kbpsのAAC形式で提供している。
— posted by サイト管理者 at 04:36 pm
祖国の文化を顧る
Mon 29 Dec’08
小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年9月26日)は、新聞記者(探訪記者)・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家。
目次 [非表示]
1 経歴
2 年譜
3 評価についての論争
4 エピソード
5 家族・親族
6 記念館
7 作品
8 著作集
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク
[編集] 経歴
国籍を取得する前の旧名は、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)である。一般的に知られているラフカディオは、彼のミドルネームである。ファーストネームはアイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んでいるが、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」をローマ字読みして「ヘルン」と表記したのが広まり、当人も「ヘルン」と呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。なお名前の「八雲」は、一時期当人が島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」にちなむとされる。
16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。
なお、彼が松江時代に居住していた住居は、1940年に国の史跡に指定されている。
イザベラ・バード、アーネスト・フェノロサ、モラエス、ブルーノ・タウト、ローレンス・ヴァン・デル・ポスト( 『 戦場のメリークリスマス 』参照 )、アンドレ・マルロー等とならび、著名な「日本紹介者」の一人であり、日本人にとっても、祖国の文化を顧る(かえりみる)際の、重要な便(よすが)となっている。
[編集] 年譜
1850年6月27日 - 誕生。父はチャールス・ブッシュ・ハーン、母はローザ・カシマティ。生地ギリシャ・レフカダ島からラフカディオというミドルネームを付けられた。
父はグレートブリテンおよびアイルランド連合王国(現・アイルランド)出身でプロテスタント・アングロ・アイリッシュである。軍医のイギリス軍少佐としてギリシャ王国・イオニア群島レフカダ島(Lefkada)の町リュカディアに駐在中、地元のキティラ島の裕福なギリシャ人名士の娘であるローザ・カシマティと結婚。
1852年 - 2歳のとき父母は父の家があるダブリンに移住する。
1854年 - 父が西インドに赴任し一人となった母は精神を病みギリシャのセリゴ島へ帰国。4歳のハーンはサラ・ブレナン大叔母(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート交差点)に厳格なカトリック文化のなかで育てられた。
1856年 - 6歳のとき父母は離婚し父は再婚した。
1863年 - 13歳アショウ・カレッジに入学。
1863年 - フランスの神学校に行く、帰国しセント・カスバーツ校入学。
1865年 - 16歳のとき学校で遊んでいる最中に左目に怪我をし視力がなくなる(以後左を向いた写真ポーズをとる)。
1866年 - 17歳のとき父は西インドから帰国途中に病気で死亡、大叔母は破産した。
1867年 - セント・カスバーツ校退学、ロンドンに行く。
1869年 - 20歳のときにリバプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。
1872年 - トレード・リスト紙の副主筆。
作業しました。
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1 経歴
2 年譜
3 評価についての論争
4 エピソード
5 家族・親族
6 記念館
7 作品
8 著作集
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク
[編集] 経歴
国籍を取得する前の旧名は、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)である。一般的に知られているラフカディオは、彼のミドルネームである。ファーストネームはアイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んでいるが、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」をローマ字読みして「ヘルン」と表記したのが広まり、当人も「ヘルン」と呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。なお名前の「八雲」は、一時期当人が島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」にちなむとされる。
16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。
なお、彼が松江時代に居住していた住居は、1940年に国の史跡に指定されている。
イザベラ・バード、アーネスト・フェノロサ、モラエス、ブルーノ・タウト、ローレンス・ヴァン・デル・ポスト( 『 戦場のメリークリスマス 』参照 )、アンドレ・マルロー等とならび、著名な「日本紹介者」の一人であり、日本人にとっても、祖国の文化を顧る(かえりみる)際の、重要な便(よすが)となっている。
[編集] 年譜
1850年6月27日 - 誕生。父はチャールス・ブッシュ・ハーン、母はローザ・カシマティ。生地ギリシャ・レフカダ島からラフカディオというミドルネームを付けられた。
父はグレートブリテンおよびアイルランド連合王国(現・アイルランド)出身でプロテスタント・アングロ・アイリッシュである。軍医のイギリス軍少佐としてギリシャ王国・イオニア群島レフカダ島(Lefkada)の町リュカディアに駐在中、地元のキティラ島の裕福なギリシャ人名士の娘であるローザ・カシマティと結婚。
1852年 - 2歳のとき父母は父の家があるダブリンに移住する。
1854年 - 父が西インドに赴任し一人となった母は精神を病みギリシャのセリゴ島へ帰国。4歳のハーンはサラ・ブレナン大叔母(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート交差点)に厳格なカトリック文化のなかで育てられた。
1856年 - 6歳のとき父母は離婚し父は再婚した。
1863年 - 13歳アショウ・カレッジに入学。
1863年 - フランスの神学校に行く、帰国しセント・カスバーツ校入学。
1865年 - 16歳のとき学校で遊んでいる最中に左目に怪我をし視力がなくなる(以後左を向いた写真ポーズをとる)。
1866年 - 17歳のとき父は西インドから帰国途中に病気で死亡、大叔母は破産した。
1867年 - セント・カスバーツ校退学、ロンドンに行く。
1869年 - 20歳のときにリバプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。
1872年 - トレード・リスト紙の副主筆。
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— posted by サイト管理者 at 04:16 pm
ビジター用共ボタン式
Sat 13 Dec’08
ホーム用は、2005年までの31年間に渡り使用された赤のストライプを採用、「Swallows」ロゴは国鉄時代のものが復活。ロゴ、背番号、胸番号は紺地に赤の縁取り。首、袖、腰、パンツには紺・赤・紺の3本ライン。
ビジター用は、鮮やかなスカイブルー地に白のストライプ。ロゴ、背番号、胸番号は赤地に紺の縁取り。首、袖、腰、パンツには紺・白・紺の3本ライン。
1975年より、ビジター用の胸ロゴ、背番号、胸番号の縁取りが紺から白になる。
1976年より、ビジター用の首、袖、パンツのラインのうち白部分が赤になる。
1977年より、広岡達朗監督の要望により、ベルト式になる。また、従来のニット地に加え、サプライヤーであるデサント社の技術により、快適性、軽量化を図ったストライプを施した上でのメッシュ地の上着を阪神タイガースのホーム用と同時期に採用する。
1978年 - 1989年 基本デザインが当時のアトランタ・ブレーブスを意識したものにモデルチェンジされ、これまでの紺・赤から青・赤になり、帽子が青一色になる。さらに首、袖、パンツのラインが赤一色、赤のVネックに、ベルトが赤になる。背番号の上には1973年以来、選手名が復活、背番号、胸番号の書体がオリジナルロゴの角文字に変わる。胸ロゴ、背番号は紺に赤・白の縁取りになり、胸番号の縁取りは消える。またスパイクの色が赤地に白ラインとなる。
ホーム用は赤ストライプが太くなり、左袖に紺地の「Yakult」のロゴ刺繍が入る。
ビジター用はスカイブルーの色がやや落ち着き、白ストライプが消える。左袖には紺地の「Swallows」のロゴ刺繍。
1980年 - 武上四郎監督就任時より、スパイクが白地に赤ラインになり、ゼット社のスパイクとなる。
1982年 - ビジター用の首、袖、パンツのラインが赤から赤・青・赤の3本ラインになる。
1978年の日本一に輝いたゲンのいいユニフォームで、計12年間使用された。
1990年 - 1998年 野村克也監督就任により、パンツのラインと、胸ロゴ、背番号の赤白の縁取りが消え、二桁の選手の背番号の間隔がやや狭くなる。
ホーム用は、マイナーチェンジ。赤ストライプ、Vネックの幅がやや細くなる。
ビジター用は大きく変更。光の加減でストライプに見える「シャドゥ・ストライプ」を採用。1977年のストライプメッシュ地のユニフォームを製造したデサント社の技術により実現。胸ロゴ、背番号には白いシャドゥがつき、シャドゥ・ストライプと併せてサッカーのユニフォームを意識したものになる。首、袖のラインは青・白・青となり、胸番号と左袖の「Swallows」ロゴが赤色になる。
1994年には、ホーム用の袖の赤ラインが消え、帽子のYSマークがアトムズ時代に使われた「Ys」型になり、左袖には、ホームのYakult、ビジターのSwallowsのロゴの上に「つば九郎」のペットマークがつく。
1997年には、ビジター用の袖ラインも消え、スパイクの個人契約メーカーでの使用が認められる。
ID野球に象徴される、強いヤクルトのイメージがあり、4度のリーグ優勝、3度の日本一をもたらしたユニフォームである。
1970年代 - 1980年代、各球団ともビジター用のユニフォームの色はスカイブルー地が定番だったが、1990年代に入ると、各球団が徐々にグレーやチームカラーを施したものを採用しつつあったが、1998年まで12球団で唯一スカイブルー地を使用し続けた。
1999年 - 2005年 若松勉監督就任に伴い、ホーム用が9年ぶりモデルチェンジ。青から紺に戻る。ホーム、ビジター用共ボタン式になり、背番号、選手名の書体が中日ドラゴンズに続いて、メジャー・リーグで採用されているタイプになる。
ホーム用は、首周りのラインが消え、赤ストライプがさらに細くなり、幅も狭くなる。
ビジター用は、大幅にモデルチェンジし、提携していたクリーブランド・インディアンスのロード用のデザインを世襲したものになる。
1999年夏場からビジター用のアンダーシャツ、キャップのツバ部が赤くなる。2000年には紺に戻るが、一時ホーム・ビジター用で、また赤が採用。赤いアンダーシャツ、キャップのツバは2002年に廃止された。2002年に1試合だけ若松監督のゲン担ぎでホームの試合で使用したのが最後である。なお最後に着た先発投手は入来智元投手であり、対巨人戦だったものの負け試合だった。ただし、2005年までユニフォームの登録はしていた模様。
ビジター用は、本来1998年から導入される予定だったが、前年日本一になったことからゲン担ぎのために当時の監督・野村克也が導入を止めさせた。
2006年 - 古田敦也選手兼任監督就任、球団あげての観客増員プロジェクト「F-PROJECT」の一環として、「BEAMS」が手がける。ホーム、ビジター共基本カラーは変わらないが、首周りと袖に赤ラインが入り、肩から袖、パンツの腰から足首にかけて細くなる太ラインが入る。ホーム・ビジターともに右肩に「Tokyo」のロゴが入り、さらに選手名の書体が変わり、背番号、胸番号の書体が角が丸い角型に変わる。
ホーム用は、1974年より32年間採用されていた赤ストライプが消える。胸ロゴに赤、白、水色の縁取りが入る。
ビジター用は、背番号が赤地に白縁取りだったものが、白一色になる。
2008年3月31日、5月の神宮球場主催試合などにおいて、『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』と題して、ヤクルトアトムズ時代のビジターユニホームを復刻し、一軍全選手が着用して試合に臨むことが発表された。手塚治虫の生誕80周年記念事業として、彼の個人事務所手塚プロダクション協賛で行われる。対象となるのは5月3-5日の読売ジャイアンツ戦、9-11日の広島東洋カープ戦、13-15日の中日ドラゴンズ戦の神宮球場ホームゲーム3カード9試合と、交流戦開幕シリーズの5月21-22日・埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)のビジターゲーム1カード2試合。なお、西武ドームでの埼玉西武戦では、同じく手塚プロのレオとの共演となる[1]。
[編集] スポンサー
セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。スワローズでは2005年まで掲載していなかったが、2006年のユニデンから広告が入る。
ユニフォーム左胸 ユニデン(2006年度 - 2007年度、オフィシャルパートナーシップ契約)
ユニフォーム腰 インテル(2007年度)
ヘルメット レノボ・ジャパン(2007年度)
参考にしています。
ビジター用は、鮮やかなスカイブルー地に白のストライプ。ロゴ、背番号、胸番号は赤地に紺の縁取り。首、袖、腰、パンツには紺・白・紺の3本ライン。
1975年より、ビジター用の胸ロゴ、背番号、胸番号の縁取りが紺から白になる。
1976年より、ビジター用の首、袖、パンツのラインのうち白部分が赤になる。
1977年より、広岡達朗監督の要望により、ベルト式になる。また、従来のニット地に加え、サプライヤーであるデサント社の技術により、快適性、軽量化を図ったストライプを施した上でのメッシュ地の上着を阪神タイガースのホーム用と同時期に採用する。
1978年 - 1989年 基本デザインが当時のアトランタ・ブレーブスを意識したものにモデルチェンジされ、これまでの紺・赤から青・赤になり、帽子が青一色になる。さらに首、袖、パンツのラインが赤一色、赤のVネックに、ベルトが赤になる。背番号の上には1973年以来、選手名が復活、背番号、胸番号の書体がオリジナルロゴの角文字に変わる。胸ロゴ、背番号は紺に赤・白の縁取りになり、胸番号の縁取りは消える。またスパイクの色が赤地に白ラインとなる。
ホーム用は赤ストライプが太くなり、左袖に紺地の「Yakult」のロゴ刺繍が入る。
ビジター用はスカイブルーの色がやや落ち着き、白ストライプが消える。左袖には紺地の「Swallows」のロゴ刺繍。
1980年 - 武上四郎監督就任時より、スパイクが白地に赤ラインになり、ゼット社のスパイクとなる。
1982年 - ビジター用の首、袖、パンツのラインが赤から赤・青・赤の3本ラインになる。
1978年の日本一に輝いたゲンのいいユニフォームで、計12年間使用された。
1990年 - 1998年 野村克也監督就任により、パンツのラインと、胸ロゴ、背番号の赤白の縁取りが消え、二桁の選手の背番号の間隔がやや狭くなる。
ホーム用は、マイナーチェンジ。赤ストライプ、Vネックの幅がやや細くなる。
ビジター用は大きく変更。光の加減でストライプに見える「シャドゥ・ストライプ」を採用。1977年のストライプメッシュ地のユニフォームを製造したデサント社の技術により実現。胸ロゴ、背番号には白いシャドゥがつき、シャドゥ・ストライプと併せてサッカーのユニフォームを意識したものになる。首、袖のラインは青・白・青となり、胸番号と左袖の「Swallows」ロゴが赤色になる。
1994年には、ホーム用の袖の赤ラインが消え、帽子のYSマークがアトムズ時代に使われた「Ys」型になり、左袖には、ホームのYakult、ビジターのSwallowsのロゴの上に「つば九郎」のペットマークがつく。
1997年には、ビジター用の袖ラインも消え、スパイクの個人契約メーカーでの使用が認められる。
ID野球に象徴される、強いヤクルトのイメージがあり、4度のリーグ優勝、3度の日本一をもたらしたユニフォームである。
1970年代 - 1980年代、各球団ともビジター用のユニフォームの色はスカイブルー地が定番だったが、1990年代に入ると、各球団が徐々にグレーやチームカラーを施したものを採用しつつあったが、1998年まで12球団で唯一スカイブルー地を使用し続けた。
1999年 - 2005年 若松勉監督就任に伴い、ホーム用が9年ぶりモデルチェンジ。青から紺に戻る。ホーム、ビジター用共ボタン式になり、背番号、選手名の書体が中日ドラゴンズに続いて、メジャー・リーグで採用されているタイプになる。
ホーム用は、首周りのラインが消え、赤ストライプがさらに細くなり、幅も狭くなる。
ビジター用は、大幅にモデルチェンジし、提携していたクリーブランド・インディアンスのロード用のデザインを世襲したものになる。
1999年夏場からビジター用のアンダーシャツ、キャップのツバ部が赤くなる。2000年には紺に戻るが、一時ホーム・ビジター用で、また赤が採用。赤いアンダーシャツ、キャップのツバは2002年に廃止された。2002年に1試合だけ若松監督のゲン担ぎでホームの試合で使用したのが最後である。なお最後に着た先発投手は入来智元投手であり、対巨人戦だったものの負け試合だった。ただし、2005年までユニフォームの登録はしていた模様。
ビジター用は、本来1998年から導入される予定だったが、前年日本一になったことからゲン担ぎのために当時の監督・野村克也が導入を止めさせた。
2006年 - 古田敦也選手兼任監督就任、球団あげての観客増員プロジェクト「F-PROJECT」の一環として、「BEAMS」が手がける。ホーム、ビジター共基本カラーは変わらないが、首周りと袖に赤ラインが入り、肩から袖、パンツの腰から足首にかけて細くなる太ラインが入る。ホーム・ビジターともに右肩に「Tokyo」のロゴが入り、さらに選手名の書体が変わり、背番号、胸番号の書体が角が丸い角型に変わる。
ホーム用は、1974年より32年間採用されていた赤ストライプが消える。胸ロゴに赤、白、水色の縁取りが入る。
ビジター用は、背番号が赤地に白縁取りだったものが、白一色になる。
2008年3月31日、5月の神宮球場主催試合などにおいて、『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』と題して、ヤクルトアトムズ時代のビジターユニホームを復刻し、一軍全選手が着用して試合に臨むことが発表された。手塚治虫の生誕80周年記念事業として、彼の個人事務所手塚プロダクション協賛で行われる。対象となるのは5月3-5日の読売ジャイアンツ戦、9-11日の広島東洋カープ戦、13-15日の中日ドラゴンズ戦の神宮球場ホームゲーム3カード9試合と、交流戦開幕シリーズの5月21-22日・埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)のビジターゲーム1カード2試合。なお、西武ドームでの埼玉西武戦では、同じく手塚プロのレオとの共演となる[1]。
[編集] スポンサー
セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。スワローズでは2005年まで掲載していなかったが、2006年のユニデンから広告が入る。
ユニフォーム左胸 ユニデン(2006年度 - 2007年度、オフィシャルパートナーシップ契約)
ユニフォーム腰 インテル(2007年度)
ヘルメット レノボ・ジャパン(2007年度)
参考にしています。
— posted by サイト管理者 at 02:35 pm














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